第23話 天国の食べもの

天国の食べもの


 『思い出アルバム』は、どういうわけか私の青春時代のページが開いている。私が二十四歳ころだな、これは。この時代の写真には、ペーペー社会人で、少々お疲れ気味の私が写っている。


 雪ふりの寒い夜だった。夜十一頃だったかな〜。山形から仙台へ仕事の帰り道、関山峠の「自動販売機売店」に私と初老のおんつぁん二人組がいた。田舎育ちのおんつぁんたちは、自動販売機に慣れていないらしく、苦労してようやく「カップヌードル」にお湯を入れ、しばらくして食べはじめた。


 と、突然一人が絶叫した。「こんなうめ(美味い)もの、おら初めて食った!」(え〜〜〜〜!!!?)常に、自然健康食品だけを食べてきたおんつぁんだけに、この化学調味料だらけの蠱惑的な味に一瞬我を忘れたのだろう。山から下りた木こりが、キャバレーの女にたまげたようなものだ。

 
 さて、『思い出アルバム』を私の幼少時代のページへとめくっていこう。幼少期はいうまでもなく白黒写真だ。思い出が、カラー写真よりいきいきとよみがえるのはどうしてだろう?まず一枚目は三歳頃の写真だ。わが家自家製のかき氷のイチゴシロップを、私がこっそり盗んで飲んでいる写真だ。あ〜〜思い出す!こんなに甘くて美味しいものは、この世のものとは思えなかった。


 昭和三十年代のはじめはどこも貧乏だったが、毎年暮らしは良くなり近所付き合いもとても豊かだった。わが家では父は教師だったが、母は実家が商家でその血が濃く、小さな食料品店をやっていた。夏には「かき氷」も売っていた。その頃は、エアコンなんてものはなく、クールダウンは「うちわ」「行水」「かき氷」だった。


 今頃の季節なら、遅いときは夜の十二時頃までやっていたという。大きな氷を機械にセットし、手でハンドルを回してつくるのだ。体力がなくてはできない商売だった。わが亡き母はその頃体がとても丈夫で風邪などひいたこともない。というか、商売の忙しさに加え、夫や子らがしじゅう病気だらけで、自分が風邪ひく暇もなかったようだ。


 この頃、近所の中華そば屋でも、漆塗りのそうちゃんの家のお母さんも、あちこちで「かき氷屋」をはじめたが、わが家のシロップにかなう店はなかった。たっぷりな高級ザラメをとろとろ煮込んでシロップをつくるのだ。他の店なんか合成甘味料「サッカリン」を使っていたところも多い。


 さて私はといえば、蜜に惹きつけられたミツバチのようになって、しじゅうお客さんのところに顔を出す。しかも、おふくろ譲りの「商売の血」が濃いのか、お客さん一人ひとりに挨拶をしたものだ。いつしか「店のマスコット」みたいに可愛がってもらうようになった。


 父は父で、学校から帰ると今度は母に頼まれて、帰ってきたばかりの学校やら近所に「かき氷の出前」である。いやはや、何でもやった時代だ。今ではお寺さんは裕福だが、この頃近所のお寺では山羊を飼っていて、家族はそのミルクを飲んでいたし、和尚さんはやはり先生兼務だった。みんな食べるために、あれこれいろんなことをやっては変え、やっては変えしていたものだ。


 二番目の写真は店先につるした「バナナ」だ。想像できないだろうが、バナナはその頃「超高級スイーツ」であった。一本三十円もした。その頃の中華蕎麦(ラーメン)一杯と同じ値段だから、今なら一本五百円くらいになるだろうか?


 ここでもチビッコ盗人の私が写っている。バナナは房ごと、店につるして一本売りをしていた。私は小さいくせに、こんな悪いことには良く知恵が回ったものだ。バナナの房の真ん中からもぐのだ。外側にバナナがあるので盗まれても気づきにくい。バナナを食べると、あの甘い香り、サクッモグッという食感で、まるで天国に行った気がしたものだ。


 幼少期の天国の食べもの、最後は「ソフトクリーム」だ。これをはじめて食べたのは小学校二年生くらいだった。この世のものではないと思った。なにせ、世に牛乳はあったが、給食は鼻が曲がりそうな「脱脂粉乳」。アイスというのは「甘いだけの氷菓子」の時代。乳白色のとろけるあの乳の味覚、コーンの香ばしさ!だから今でも好きなのだとつくづく思う。


 さて、今週土曜の九月一日は「母の十三回忌」だ。その日私は、あの日の情景をきっと思い出すに違いない。かき氷機械のそばで母と一緒に写っっている写真。母は頭に手ぬぐいを被り、ノースリーブの夏服から出たたくましい腕を私の肩に置いている。母も私も、まるで夏の太陽のように、何の屈託もなく笑っている・・・