第40話 ミツバチと校長先生


(昭和46年高校卒業アルバムより)

ミツバチと校長先生


 「生物部」に入ってまもなく入部歓迎会があった。始まってすぐに直感した。「これはとんでもないクラブらしい・・・」学校の敷地内には「三四郎池」という小さな池があったが、そこには生物部で雷魚を飼っていた。歓迎会はその雷魚の試食からはじまった。調理道具はメスやビーカー、アルコールランプ、味付けは実験用の「果糖」など・・・調理後、食卓?を囲んで伝統芸能のように代々口伝されてきた「ワイカ」の合唱。仲間うちで一生語り笑いあえるほどたくさんのエピソードがこの日から生まれ続けていった。


 入部して一月以内に研究テーマを決めなければいけない。すでに先輩が研究しているテーマに加わってもいい。さまざまな研究やら調査らしきものが行われていた。ガマの呼吸、強酸性湖のユスリカ生態、プラナリアの再生、農薬の毒性、緒絶川の水質調査、チョウチョの生態、人参の組織培養、ヒルの吸血能力、イモリの再生、雷魚の呼吸・・・自分の血を吸わせてヒルを飼っていたりとか、実にヤバそうなクラブではあった。


 私はもう一人の同級生と共に、新たなテーマに取り組もうと思って図書館で本を物色した。締め切り間際にエイヤ〜!と決めたのが「ミツバチの色覚」であった。これはカール・フォン・フリッツという学者の有名な研究であったが、この追実験をすることにした。物まねだけでは恥ずかしいので、ミツバチの色覚、形の記憶、匂いの記憶それぞれの優先度合いの研究に持って行きたいな〜と思っていた。


 さて、研究するにもミツバチのことなど一切解らないし、簡単に手に入るものでもない。そのうち学校から2キロくらいはなれたところで養蜂業を営んでいる方がいることを知り、さっそく交渉に行った。その養蜂場は快く引き受けてくれて、それから一年以上もそこに通い研究させていただいた。


 ミツバチにはずいぶん刺され、そのたびにとんでもない腫れ方をして学校を何度か休んだこともある。かかりつけの医者には「絶対やめなさい」と言われたが、どんなに腫れ上がってもやめなかった。今考えると不思議だが、その頃は「負けん気」がやたら強かったのかな〜と思う。


 研究二年目、仙台二高でもミツバチの研究をしていることを知った。生物部の顧問の先生にお願いして、そのミツバチを一部譲っていただくことになった。そして高校の敷地内に自前のミツバチの巣箱を置き飼うこととなった。場所は他の生徒になるべく迷惑をかけないようにと、体育館裏の空き地にした。しかしその近くには体育館トイレの窓があった・・・


 いつ頃か忘れたが、生徒か先生か知らないがトイレにミツバチが入ってきたとクレームを付けた奴がいた。ミツバチは刺せば必ず死ぬ運命なので、よほどのことがない限り刺したりしない。じっとして刺激しなければ、そこが蜜源でないことがわかれば後は来なくなるのだ。それを知らずに振り払ったりすると刺されるのだ。ミツバチは小さいが、スズメバチ、アシナガバチに匹敵する毒を持っていて、人によっては大変な腫れを生じてしまう。


 さてミツバチの飼育に関してどうやら職員会議でも議題になったらしい。今ならまちがいなく即刻研究中止だろう。刺された生徒の親が乗り込んでくることだろう。しかし、四十数年以上も前の高校は少し違っていた。校長先生がこう言ったらしい。「いいからやらせろ」それで会議は終わりとなり、私たちは研究を続けることができた。この話は卒業してからずっと後、高校同期会に招待した生物部の顧問だった先生から聞いた。


 思い起こしてみると、校長先生の家は校舎に近いところにあり、休日、杖をつきながらよく散歩していた。時々校長先生は、散歩しながら研究している私たちを遠巻きに見ていた記憶がある。ゆったりして、ときどき微笑む柔らかい貫禄がある校長先生だった。校長先生は一人一人をよく観察してくれていたのだった。私たちが一生懸命研究している姿を見ていてくれたのだった。それゆえ職員会議で「鶴の一声」を発してくれたのだ。この文章を書きながら感謝の思いで「グッ」ときてしまった・・・


 あるやんちゃな事件で停学になりそうなとき、一緒によばれた父と並んで校長室で言われたことも思い出す。「川嶋くん、ま〜やったことはどうでもいいから、その服だけは何とかしてくれや」笑いながら校長先生は言うのだった。「は〜、すみませんでした。今後しませんから」と頭をかいた私の右わきは、これまた服が裂けていて大笑いとなった。事情を話せば、この前年生徒大会で制服廃止を勝ち取ったのだが、実際は着る服とてほとんどなし。上だけは黒い学生服の「着た切り雀」のままのため、そのあちこちが破れていたのだった。


 この頃の先生たちはそれぞれが信じられないくらいユニークで、本当に生きた教育を受けることができたと感謝している。アル中で酔っぱらって授業する美術の先生などもいた。代々の美術部の生徒たちはこの先生を「おとっちゃん」とよんでとても慕っていた。親が病気でも帰らないような奴らが、この先生が入院したとなればどんな遠くからでも駆けつけたらしい。


 生物の先生も、授業の一環として先輩や私たちに研究発表をよくさせてくれたものだ。顧問の先生や事務や図書館の女性職員さんたちと一緒に、毎年三陸の「島」でキャンプをするのも生物部の恒例だった。男子校だったのでとても楽しく甘酸っぱい思い出だった。


 今や先生一人一人の個性を発揮することが罪悪のようになってしまった。先生たちは「(お国の)羊の群れ」にされ続けているようにみえてしょうがない。個性的で、自由闊達な、そんな昔の良き教育の場はもうどこにもないのだろうか・・・