第22話 骨付きのビフテキ

骨付きのビフテキ


 花の小学校一年生、季節は秋、十月下旬だったな。今でもその日の様子を鮮明に思い出す。しかし、その晩から約一週間まったく記憶がない。死線をさまよっていたからだ。


 秋のその夜、八時頃だったな。私は居間の四畳半の襖に背中を付けて柿を食べていた。その頃は「狭いながらも楽しいわが家」で、家族四人団らんしていた。居間の天井には六十ワットの白熱電球がひとつだけ。でも暖かい光で皆を包んでくれていた。


 実はこの晩、私は少しおなかが痛かった。それを言うと、心配性の母親が騒ぎ出すと思って、じっと我慢しながら漫画本を読んでいた。しばらくしておなかが我慢できないくらい痛くなってきた。さらにガタガタと身体が震え始めた。すぐに布団に寝せられたが、寒気が止まらない。母親が掛け布団4枚までかけてくれたところまで覚えている。その後意識を失った・・・


 意識を取りもどしたのはその一週間後くらいだったらしい。(この世に帰って来られたのは正直嬉しい)近所のお医者さん二人に来てもらい、巨大なリンゲル注射というやつをずいぶん打ったらしい。


 何とか助かったのは、この頃ようやく出回り始めた抗生物質「クロロマイセチン」が手に入ったからと聞いた。その薬を手に入れるために、向かいの酒問屋のおばあさんが大いに力を貸してくれたという話を後から聞いた。(そのおばあさんは百二歳でなくなりました)


 病気は伝染性の腸炎で、どうもどこかで飲んだ井戸水か何かで感染したらしいのだが、母親はその晩食べていた柿が原因だというイメージを持ってしまった。そのせいで、私は母親から柿を食べることを禁じられ、成人を過ぎるまで柿を食べなかった。


 発症してから三ヶ月間、自宅で苦しい闘病生活が続いた。なにせ、絶食が一か月、その後葛湯、米粒が数えられる重湯が一か月。最後の一か月で、薄いおかゆ、ヤクルトのちっちゃな壜ほどの温めた牛乳、白身の魚をほんの少し・・・こんな食生活が三か月間も続いたのだ。


 ちっちゃな子供ゆえに、ストレスも大変なもので、そのころは寝床でずいぶんワガママを言っては、親やお手伝いをしてくれた近所のばあさんをいじめてしまった。


 しかし、食べられない日々、唯一の楽しみがあった。それは、母親がとっていた婦人雑誌の付録「料理集」だった。毎日、食い入るように読み(見)続けた。つぎに、よくなったら食べたいと思う料理の絵を毎日描いた。いつも描くのが、「骨付きのビフテキ」だった。


 ビフテキというのは見たことも食べたこともない「あこがれの究極の食べ物」だった。それはどんなものだろうと想像し、毎日毎日絵に描いたのだった。そのビフテキとは「漫画」にのってるように、大きな骨が付いてて、肉はふた山に盛り上がって、とても大きなものにちがいない・・・想像の世界で毎日毎日食事をしていたのだった。


 でも、本当のビフテキに出会えたのは、ずいぶん後になってからだった。昭和三十年代から四十年代の田舎では「牛肉」など売っていなかった。肉といえば「鯨肉」、それと脂身のやたら多い「鶏肉」「豚肉」がほとんどだった。でも食べられないぶん、あこがれが続いたのでかえって幸せだったかもしれない。


 ビフテキ、「ビーフ・ステーキ」なるものを初めて食べたのは二十歳を過ぎてからだった。女房と知り合った頃、仙台の住友生命ビルのてっぺんにレストランができたので一緒に行った。実は正式な洋食(ディナー)というのは初めてだったので、行く数十分前に本屋に行って、食べ方を覚えてきた。


 ところが・・・失敗した。本に書いてあったスプーンやフォークがワンセット多かったのだ。(私がまちがって覚えたのかもしれない)それで順番が狂ってしまい、最後のデザートのスプーンがなくなってしまった。


 もちろん、その晩のビフテキには「骨」は付いてなかった。おかげで「骨付きのビフテキ」は、今でもあこがれの御馳走のままなのである。